高橋源一郎『「悪」と戦う』を読んで「世界」の構造がよぎる

 高橋源一郎『「悪」と戦う』(河出文庫)を読んだ。久々の再読になる。前回読んだのは単行本が出たばかりの頃だから、えー、あれはいつだっけ? と、いま調べたら2010年ということのようだ。そうか、もう11年も前か。震災前だったというのが驚きだが、それはともかく、以下、今回読み直して思ったことをつらつらと書いてみる。

 

 

 「悪と戦う」とかいうといろいろ浮かぶけれど、ここでは(僕自身に)わかりやすい例としてゲーム(古いゲーム)を挙げよう。マリオやらドラクエやら。あれらのゲームには出てくるでしょう、わかりやすい悪が。お姫様をさらうクッパだとか、モンスター軍団を引き連れて人間どもを襲うバラモスだとか。(しかしいま思ったんだけどクッパは亀のくせに人間のピーチ姫をさらってどうするんだ。亀と人間とじゃ生殖もできんでしょう。身代金めあて?)

 これらの悪はある意味ではわかりやすい。悪として安定しているというか。純度100パー、混じりっけなしの悪というか。ふだつき、モノホン。モンドセレクション金賞の悪といってもいい。それらは打ち倒して当たり前であって成敗推奨。よしぶっ殺そう。何おまえは魔王の手先か、じゃあおまえも悪な。悪の味方は悪、悪の味方の味方も悪。悪は敵だし敵は倒してなんぼ。倒せ倒せ倒せ。それ以外に道はなし、いざゆかん討伐の旅へ・・・てなもんです。そのとき私たち(悪ではない者たちを仮に私たちと呼んでおこう)は、悪の逆サイドにある者として、みずからの正当性を疑わない。つまりは私たちは悪に対抗する正義ということで、ここには〈正義 vs 悪〉という古典的な構図があるわけだ。

 高橋源一郎はもちろんそのような単純な悪を描かない。って、そんなのはもうタイトルを見た時点で明らかで、悪にカギ括弧がついている、「悪」と。すなわち高橋さんは、

「あんさんそないに「悪」言いますけどな、そんないっしょくたにはくくれまへんのや、中にはほんまに「悪」と呼んでええんかわからんような、そういう微妙な「悪」いうんもあってやな」

 と言っていて、ここまではわかりやすい話だ。しかし、では、その「悪」とはいったい何なのか? というと、これはかなり言いにくい。言いにくいからわざわざ小説で書くのであって、作中でも明示的な定義は出てこないのだが、あえて言葉を与えるならば、

 「悪」=この「世界」を成り立たせるために、そこから排除されるべき何か

 とでもなるだろうか。そう、「私たち」が当たり前のように享受しているこの「世界」は、「悪」を排除することによってかろうじて成り立っている。「悪」を隅に追いやり、見ないことにし、排除し、抹殺し、忘却し、つまりは「ないこと」にすることで。

 したがって、「私たち」がこの「世界」の成立をオモテ側から支えているとしたら、「悪」はウラ側から支えているということになる。「私たち」がこの「世界」の肯定的条件であるなら、「悪」は否定的条件(「ない」ことによって何かを成り立たせる条件)であると言ってもいい。

 注意しよう。ここでは「世界」と言っているのであって「社会」と言っているのではない。つまり、「社会」ではおうおうにして弱い存在というのがいる。たとえば障害を持つ人たちとか。「健常者」の「私たち」は、そうした弱者をほとんど「悪」と措定し、隅に追いやり、見ないことにし、排除し、抹殺し、忘却し、つまりは「ないこと」にすることで、のほほんと日々の社会生活を送っていられるというわけだ。高橋さんもたしかに『「悪」と戦う』のなかで、そうした〈弱者を排除することで成り立つ「社会」〉を描こうとしているように見えるところもある。が、それは本体ではない。それは、〈「悪」を排除することで成り立つ「世界」〉というより大きな構造の、縮小されたひとつのヴァージョンだろう。

 話を戻すと、「私たち」はオモテから、「悪」はウラからこの「世界」を支えている。であるとすれば、それってもう、ある意味で「私たち」と「悪」とは協力関係にあるということではないだろうか。

 と、ここでタイトルの「と」が気になりはじめる。『「悪」と戦う』の並立助詞の「と」のことだ。これは、

 ①「悪」に対して戦う(against 「悪」)

 という意味なのか、それとも、

 ②「悪」とともに戦う(with 「悪」)

 という意味なのか。

 パッと浮かぶのはもちろん①の意味であろう。マリオやドラクエもそうだ。「悪」に対して戦う、と。そして実際、登場人物(主人公と言ってもいい)のランちゃんは、「悪」に対して戦うために旅立つ。この「世界」を滅ぼそうとする「悪」と戦うために。しかし旅の果てにランちゃんが見たものは何だったか?

 ・・・この「世界」は、「私たち」が「悪」を「ないこと」にすることで、成り立っているのだった。その「ないこと」にするやり方には目をみはるものがある。「私たち」は通常、「悪」を「ないこと」にしていることに、気づきすらしないのだ。だから「私たち」はいつでも無意識にこの「世界」の負の部分を「悪」に押しつけている。「悪」の側にしてみればたまったものじゃないだろう。が、通常「悪」は、なにしろ隅に追いやられ、見えないことにされ、排除され、抹殺され、忘却され、つまりは「ないこと」にされているので、声をあげることすらできない。「私たち」はある意味で、声すらあげられない「悪」とともに、この「世界」を作り上げている。

 この事態を指して、上では、「「私たち」はオモテから、「悪」はウラからこの「世界」を支えている」と述べたのだった。しかしこれはあくまで「私たち」の側から見た一方的な論理でしかない。「悪」の側、すなわち「ないこと」にされ、排除される側にしてみれば、そんな「世界」に協力してやる義理なんてないだろう。なんで俺たちが「ないこと」にされなきゃなんねーんだ、と。

 さて、ここで、「悪」が「ないこと」になってくれなかったらどうなるか? いや、それは簡単で、「世界」が滅びるのです。論理的に考えてそうでしかありえない。「悪」が「ないこと」になることで「世界」が成立しているのだから、「悪」が「ないこと」にならなければ「世界」は滅びる、と。本作はまさにこれまで「ないこと」にされてきた「悪」が、ウラからオモテへと進出してくることで「世界」が崩壊しかかり、それをランちゃんがすんでのところで防ごうとするというのが大きなスジになっている。

 が、しかし。

 ランちゃんは旅の果てに、ラスボス的な「悪」そのものと対峙する。その際、「悪」はぬいぐるみに形象化されているのだが、さて、ではランちゃんは、「悪」の親玉ぬいぐるみに対してどう振る舞っただろうか。

「よく来たね」ミアちゃん〔ランちゃんのガールフレンドで、「悪」の手先とされる〕がいう。でも、それはミアちゃんじゃない。ミアちゃんの声を借りて、「ぬいぐるみ」がしゃべってるんだ。

「こんにちは」ぼくはいう。

「ここが、どういうところだか、わかるかい?」

「わかりません」

「そうかな。きみには、わかっているはずだけど。ここは、きみが考えている通り、『悪』の巣窟だよ。きみは、『悪』を倒しにやって来たんだろう?」

「ええ、まあ」

「じゃあ、倒しなよ」

「でも、どうすれば、あなたを倒せるのか、ぼくにはわかりません」

「簡単だよ。ぼくの皮を引き裂いて、粉々にすればいい。ぼくの皮は、古びて、もろいから。だから、きみの力でも、簡単に引き裂くことができるさ」

 そして、ミアちゃんは「ぬいぐるみ」を、ぼくに手渡す。そして、悲しげにこういう。

「さあ、やるんだ。ぼくを引き裂いてみな」

「やったら、どうなるの?」

「ぼくたちは、散り散りになり、暗いところへ落ちてゆく。永遠にひとり、ひとり、バラバラに」

「やらなかったら?」

「ぼくたちは、きみたちの『世界』をもらうよ。ぼくたちには、『世界』がなかったから。『世界』は、いつも、きみたちのものだった。ぼくたちは、ずっと暗くて寒いところで、泣いているばかりだった。ぼくたちには、『世界』をもらう権利がある。そうは、思わないかい?」

 ぼくには答えることができない。なぜなら、ぼくには、「彼」のいうことが正しいように思えるから。

「ミアちゃん。なぜ?」ぼくは小さく呟く。すると、ミアちゃんは、またミアちゃんの声で、やっぱり「ぬいぐるみ」の代理人として、こういう。

「この子は、ぼくたちの仲間だから。この子は、『世界』とは無縁だったから。この子は、『世界』から拒まれていたから。この子は、違う『世界』を必要としていたから。ぼくたちだけが、この子を、受け入れることができたから。この子に、『世界』をあげることができるのは、ぼくたちだけだから。さあ、ランちゃん、やるがいい。ぼくを引き裂くことができなければ、ぼくたちは、きみたちの『世界』を引き裂くのだから」

 ミアちゃんは、薄汚れ、毛がほとんど抜け落ちた、うさぎのぬいぐるみを、ぼくに手渡す。それは、小さく、あまりにも軽い。

「キイちゃん〔ランちゃんの弟で、「悪」に囚われている〕」ぼくは、呻くようにいう。「ごめんね」

 パパ、ママ、鎌倉のおばあちゃん、マホさん〔ランちゃんにとってのウェルギリウス的な導き手〕。ごめんなさい。ぼくには、この子を引き裂くことができません。ぼくは、あんなにも、パパやママや鎌倉のおばあちゃんに愛されていたから。だから、この汚れたぬいぐるみを引き裂くことができそうにありません。

「ランちゃん」ミアちゃんが、いや、「彼」が優しそうな声でいう。「一緒に、遊ぼう」(pp.212-214)

 ランちゃんはこんなふうにまんまと「悪」に懐柔されてしまい、しかし導き手のマホさんの助力などもあってなんとか話は一件落着にまでたどり着くのだが、それはいい。

 それよりも、なぜここでランちゃんは、「悪」のぬいぐるみを引き裂いてしまわないのだろう? それが容易なことであることは、「悪」じしんが保証してくれているというのに。それは、ランちゃんがどこかで気づいているからだ。何に? 「悪」を引き裂けば、「世界」が崩壊するということに。

 それは一見おかしな話ではある。いま「悪」が「世界」を崩壊させようとしている。しかるに、その「悪」を打ち倒せば、やはり「世界」が崩壊する、とは。それは辻褄が合わないのではないか?

 そうではない。「悪」は、それがウラからオモテへと出てくることによっても「世界」を崩壊させうるが、他方で「悪」は、あくまでウラとしては必要不可欠なものなのだ。もし「悪」がウラからも消えてしまえば(ぬいぐるみを引き裂けばおそらくそうなる)、この「世界」は崩壊してしまうだろう。

 そうであれば、やはり、この「世界」が成立している時点で、「私たち」は知らず知らずのうちに「悪」とともに戦っている(with「悪」)と言うしかない。「悪」といっしょになって、ギリギリのところでこの「世界」を支えている、と。あるいは、この「世界」というのは、〈「私たち」は「悪」とともに戦う〉という事態の別名であると言ってもいい。〈「私たち」は「悪」とともに戦う〉=この「世界」ということだ。

 たしかにそれはグロテスクな構造ではある。「私たち」は、with「悪」などと言いつつ、その実態は上に述べたとおり、この「世界」の負の部分を「悪」に押しつけることでしかないのだから。しかし好むと好まざるとにかかわらず、この「世界」はそんなふうに成り立っている。

 

 

 では次の問題。

 「私たち」が「悪」とともに戦うことによってこの「世界」は成立している、と述べた。それはいい。では、「私たち」は「悪」とともに、何と戦っているのか?

 この問いは、「この「世界」は何と戦っているのか?」と言い換えてもいいはずだ。なぜなら、上に述べたとおり、〈「私たち」は「悪」とともに戦う〉=この「世界」なのだから。

 さて、では、この「世界」はいったい何と戦っているのでしょう?

 それはおそらく、「もうひとつ別の世界」ということになるだろう。つまり、「私たち」が「悪」とともに戦うというこの「世界」は、「もうひとつ別の世界」に陥らないように、「もうひとつ別の世界」と拮抗するように、成立している。あるいは、この「世界」は、「もうひとつ別の世界」を排除することによって成立していると言ってもいい。

 おや、どこかで見かけた構造だ、というのは、これは、「私たち」が「悪」を排除することによってこの「世界」を成り立たせているという構造と似ているから。つまり「私たち」が「悪」を排除することでこの「世界」を成り立たせているのと同じように、この「世界」は、「もうひとつ別の世界」を排除することによってみずからを成り立たせている。

 とすると、ここで排除された「もうひとつ別の世界」というのは、これもまた「悪」(括弧付きの「悪」)ということにならないか? それが排除されることによってこそ何かを成立させるところの、否定的条件ということにならないか? なるであろう。したがって、この「世界」は、「もうひとつ別の世界」とともに戦う(with「もうひとつ別の世界」)ということをしていることになる。

 では、この「世界」は「もうひとつ別の世界」とともに、何と戦っているのか? それは、「さらにもうひとつ別の世界」だろう。そしてそれもまた「悪」だろう。ということは、この「世界」は、「もうひとつ別の世界」および「さらにもうひとつ別の世界」とともに戦うということになる。ではこの「世界」は、「もうひとつ別の世界」および「さらにもうひとつ別の世界」とともに、いったい何と戦っているのか? というと「さらにさらにもうひとつ別の世界」となって以下無限につづく。

 ・・・高橋源一郎はかつてどこかで「言葉や文学は政治的なものである」ということを書いていた。そして、政治的であるところの言語=文学とは、究極のところ、「お前は間違っている、俺は正しい」と宣言することである、と。おそらくかつての高橋さんにとって、「あることを書く」ということは、イコール「それ以外のことを書かなかった=それ以外の可能性を殺した」ということを意味していたのだろう。冷徹と言ってもいい、リアリスティックな認識だ。

 ところが本作『「悪」と戦う』では、かつての高橋さんであれば「殺されてしまったそれ以外の可能性」として切り捨ててしまったかもしれないような、「悪」や「もうひとつ別の世界」「さらにもうひとつ別の・・・」「さらにさらに・・・」といった可能性を掬い取ろうとしているように見える。そうした「殺されてしまったそれ以外の可能性」がなければ、じつのところ、「私たち」も「この世界」も成り立たないのだ、と。

 終盤、とうとつに語り手の「わたし」(小説家本人を思わせる)が、悟りのようなものを得て思弁的なことを語りだす。かつて単行本で読んだときはこの部分がいかにも取って付けたように見えて鼻白んだものだった。

 不意に、わたしは、世界は一つではなく、たくさん、いや、無数にあるのではないかと思いました。そして、どの「世界」にも、わたしに似た「わたし」や、ランちゃんに似た「ランちゃん」やキイちゃんに似た「キイちゃん」、さらにはミアちゃんに似た「ミアちゃん」がいて、他の「世界」のことを知らずに生きているのだと。それだけじゃない。それぞれの「世界」で、なにかと戦っているのだ。なぜなら、そうしなければ、その「世界」の誰かが戦いをやめれば、すべての「世界」が、いや世界そのものが滅び去ってしまうから。ああ、わたしは自分の思いつきに興奮していました。それぞれの「世界」の住人は、他の「世界」の住人のことを知らない。けれども、一つの「世界」は、他の「世界」によって支えられているのだ。お互いの「世界」によって、支え合っているのだ。けれど、【そのことは絶対に証明できない】のです。わかっています。それは、夢想です。年がら年中、ありもしないことばかり書いているので、わたしの頭は少々、イカレ始めているのかもしれない。けれど、絶対に証明できないけれど、あるんだ。あるような気がする。あったっていいじゃないか。みんながみんな、ないといっても、わたしだけは、あるといいたい。……いえるかな。わたし、気が弱いし。興奮は……すぐに終わりました。いつものことです。次の瞬間、わたしは、もう別のことを考えていました。(pp.237-238、【 】は原文では傍点)

 僕が上で述べた、この「世界」の構造、すなわち「私たち」が「悪」とともに戦うことがこの「世界」であり、この「世界」は「もうひとつ別の世界」とともに戦い、この「世界」と「もうひとつ別の世界」は「さらにもうひとつ別の世界」とともに戦い、この「世界」と「もうひとつ別の世界」と「さらにもうひとつ別の世界」は「さらにさらにもうひとつ別の世界」とともに戦い・・・という無限の構造をもつ、ということと、引用文中で語り手の「わたし」が述べる可能世界・複数世界論のようなものが、どの程度重なるのかはわからない。というか、たぶん重ならない。重ならないが、それは言葉で説明しようとしたからそうなってしまっただけであって、おそらく、そのもとになった直観の部分では両者は似たような地点にいたのではないか。ほんの一瞬よぎる、この「世界」の感触のようなものを得た時点では。

 しかしお互い、言葉でその感触を説明しようと書くほどに当初の直観は背景に退き、なんか違うんだけどなと思いつつ、でもまあこれはこれでおもしろいからいいか、となって、「次の瞬間」には「もう別のことを考えていました」となるのだ。