ガツガツしちゃいかん

 夏休み取得。3年ぶりに荒川に釣りにいく。結果はボーズ。川に着く直前にザッと大雨、川に着いたらさんさんと日が照り、近ごろ続いていた雨で水は濁り気味・・・というタフコンディションのせいもあっただろうが、やはり3年ぶりというブランクが大きい。なんというか、かつて毎週のように釣りをしていた頃であれば自然とこなせていたようなひとつひとつの動作が、いちいちとりわけ意識しないとできない、というか。そうするとどうしてもラインを通じてぎこちなさが魚に伝わり、警戒されてしまったんじゃないだろうかとかなんとか、いいわけ。

 とはいえ釣り場に着いてすぐテキトーに投げてテキトーに巻いていたスモラバで1匹掛けたのは掛けた。たぶん着いてすぐでまだこちらの気が抜けていたのがよかったのだろう。そうすると魚も警戒せずにパッとルアーに食いついてくれる。枝に巻かれてバレたけど。

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 真夏の太陽が上からも下(水面)からも照るなか、汗をだらだらとかきながら、キャストとリトリーブを繰り返す。なにしろ暑くて動き回るとブッ倒れかねないので、ひとつのポイントで釣り粘る。

 草むらのなかでそうしていると、さまざまな虫があたりを飛びかったり這いまわったりしている。ときには僕の体にもとまる。蝶や蜂やハエやアメンボやカマキリや蟻といったメジャーな虫はわかるけれど、名前もわからないような大小さまざまな虫もいて、彼らを見ていると、みんなそれぞれのスケール(空間的、時間的スケール)で生きているのだなと思う。つまりみんなそれぞれバラバラの世界を生きているということだ。こうした自然のなかにいると、それが言葉でわかるよりも先に体感としてわかる。

 虫だけではない。ときおり水面に顔を出す魚(たぶんコイとかハクレン)や、岸ぎわに群れている小魚(たぶんブルーギル)、それから空を飛ぶ鳥(雄大なサギが飛んでいた)もそうだ。ヘビもいた(たぶんシマヘビ)。みなさん、ヒトである僕とはぜんぜん異なる時間と空間を生きていらっしゃる。つまり別の世界を。

 しかし不思議なのは、各生物がそれぞれ別の世界に生きているということではない。むしろ、それぞれ別の世界に生きているはずの生物たちが、なぜ同じひとつの「この世界」を共有しているのかということのほうだ。みんなてんでバラバラの世界で生きていてぜんぜん交わらないというのなら、それは好むと好まざるとにかかわらず、まあわかりやすい世界観ではある。

 しかし現実にはそうなっていない。みんなバラバラの世界を生きているはずなのに、なぜか「この世界」において交わるということが起きている。だって、そうじゃなければ「釣り」なんて行為が成り立つはずがないじゃないですか。ある意味で、釣り人は、魚のスケールで魚の世界を生きる。そうしてうまく魚に「なる」ことができたとき、魚が釣れる。たしかそういう描写が『釣りキチ三平』にもあったはずだ。魚視点のコマが。(まあ魚に「なる」ことができなくても釣れるときは釣れますが。)

 このあたりの問いってユクスキュル的なのかな。わかんないけど。

 晩ごはんはトリ団子鍋。ビールと日本酒。釣れようが釣れまいが釣りのあとのごはんはうまい。