高橋源一郎『「悪」と戦う』を読んで「世界」の構造がよぎる

 高橋源一郎『「悪」と戦う』(河出文庫)を読んだ。久々の再読になる。前回読んだのは単行本が出たばかりの頃だから、えー、あれはいつだっけ? と、いま調べたら2010年ということのようだ。そうか、もう11年も前か。震災前だったというのが驚きだが、それはともかく、以下、今回読み直して思ったことをつらつらと書いてみる。

 

 

 「悪と戦う」とかいうといろいろ浮かぶけれど、ここでは(僕自身に)わかりやすい例としてゲーム(古いゲーム)を挙げよう。マリオやらドラクエやら。あれらのゲームには出てくるでしょう、わかりやすい悪が。お姫様をさらうクッパだとか、モンスター軍団を引き連れて人間どもを襲うバラモスだとか。(しかしいま思ったんだけどクッパは亀のくせに人間のピーチ姫をさらってどうするんだ。亀と人間とじゃ生殖もできんでしょう。身代金めあて?)

 これらの悪はある意味ではわかりやすい。悪として安定しているというか。純度100パー、混じりっけなしの悪というか。ふだつき、モノホン。モンドセレクション金賞の悪といってもいい。それらは打ち倒して当たり前であって成敗推奨。よしぶっ殺そう。何おまえは魔王の手先か、じゃあおまえも悪な。悪の味方は悪、悪の味方の味方も悪。悪は敵だし敵は倒してなんぼ。倒せ倒せ倒せ。それ以外に道はなし、いざゆかん討伐の旅へ・・・てなもんです。そのとき私たち(悪ではない者たちを仮に私たちと呼んでおこう)は、悪の逆サイドにある者として、みずからの正当性を疑わない。つまりは私たちは悪に対抗する正義ということで、ここには〈正義 vs 悪〉という古典的な構図があるわけだ。

 高橋源一郎はもちろんそのような単純な悪を描かない。って、そんなのはもうタイトルを見た時点で明らかで、悪にカギ括弧がついている、「悪」と。すなわち高橋さんは、

「あんさんそないに「悪」言いますけどな、そんないっしょくたにはくくれまへんのや、中にはほんまに「悪」と呼んでええんかわからんような、そういう微妙な「悪」いうんもあってやな」

 と言っていて、ここまではわかりやすい話だ。しかし、では、その「悪」とはいったい何なのか? というと、これはかなり言いにくい。言いにくいからわざわざ小説で書くのであって、作中でも明示的な定義は出てこないのだが、あえて言葉を与えるならば、

 「悪」=この「世界」を成り立たせるために、そこから排除されるべき何か

 とでもなるだろうか。そう、「私たち」が当たり前のように享受しているこの「世界」は、「悪」を排除することによってかろうじて成り立っている。「悪」を隅に追いやり、見ないことにし、排除し、抹殺し、忘却し、つまりは「ないこと」にすることで。

 したがって、「私たち」がこの「世界」の成立をオモテ側から支えているとしたら、「悪」はウラ側から支えているということになる。「私たち」がこの「世界」の肯定的条件であるなら、「悪」は否定的条件(「ない」ことによって何かを成り立たせる条件)であると言ってもいい。

 注意しよう。ここでは「世界」と言っているのであって「社会」と言っているのではない。つまり、「社会」ではおうおうにして弱い存在というのがいる。たとえば障害を持つ人たちとか。「健常者」の「私たち」は、そうした弱者をほとんど「悪」と措定し、隅に追いやり、見ないことにし、排除し、抹殺し、忘却し、つまりは「ないこと」にすることで、のほほんと日々の社会生活を送っていられるというわけだ。高橋さんもたしかに『「悪」と戦う』のなかで、そうした〈弱者を排除することで成り立つ「社会」〉を描こうとしているように見えるところもある。が、それは本体ではない。それは、〈「悪」を排除することで成り立つ「世界」〉というより大きな構造の、縮小されたひとつのヴァージョンだろう。

 話を戻すと、「私たち」はオモテから、「悪」はウラからこの「世界」を支えている。であるとすれば、それってもう、ある意味で「私たち」と「悪」とは協力関係にあるということではないだろうか。

 と、ここでタイトルの「と」が気になりはじめる。『「悪」と戦う』の並立助詞の「と」のことだ。これは、

 ①「悪」に対して戦う(against 「悪」)

 という意味なのか、それとも、

 ②「悪」とともに戦う(with 「悪」)

 という意味なのか。

 パッと浮かぶのはもちろん①の意味であろう。マリオやドラクエもそうだ。「悪」に対して戦う、と。そして実際、登場人物(主人公と言ってもいい)のランちゃんは、「悪」に対して戦うために旅立つ。この「世界」を滅ぼそうとする「悪」と戦うために。しかし旅の果てにランちゃんが見たものは何だったか?

 ・・・この「世界」は、「私たち」が「悪」を「ないこと」にすることで、成り立っているのだった。その「ないこと」にするやり方には目をみはるものがある。「私たち」は通常、「悪」を「ないこと」にしていることに、気づきすらしないのだ。だから「私たち」はいつでも無意識にこの「世界」の負の部分を「悪」に押しつけている。「悪」の側にしてみればたまったものじゃないだろう。が、通常「悪」は、なにしろ隅に追いやられ、見えないことにされ、排除され、抹殺され、忘却され、つまりは「ないこと」にされているので、声をあげることすらできない。「私たち」はある意味で、声すらあげられない「悪」とともに、この「世界」を作り上げている。

 この事態を指して、上では、「「私たち」はオモテから、「悪」はウラからこの「世界」を支えている」と述べたのだった。しかしこれはあくまで「私たち」の側から見た一方的な論理でしかない。「悪」の側、すなわち「ないこと」にされ、排除される側にしてみれば、そんな「世界」に協力してやる義理なんてないだろう。なんで俺たちが「ないこと」にされなきゃなんねーんだ、と。

 さて、ここで、「悪」が「ないこと」になってくれなかったらどうなるか? いや、それは簡単で、「世界」が滅びるのです。論理的に考えてそうでしかありえない。「悪」が「ないこと」になることで「世界」が成立しているのだから、「悪」が「ないこと」にならなければ「世界」は滅びる、と。本作はまさにこれまで「ないこと」にされてきた「悪」が、ウラからオモテへと進出してくることで「世界」が崩壊しかかり、それをランちゃんがすんでのところで防ごうとするというのが大きなスジになっている。

 が、しかし。

 ランちゃんは旅の果てに、ラスボス的な「悪」そのものと対峙する。その際、「悪」はぬいぐるみに形象化されているのだが、さて、ではランちゃんは、「悪」の親玉ぬいぐるみに対してどう振る舞っただろうか。

「よく来たね」ミアちゃん〔ランちゃんのガールフレンドで、「悪」の手先とされる〕がいう。でも、それはミアちゃんじゃない。ミアちゃんの声を借りて、「ぬいぐるみ」がしゃべってるんだ。

「こんにちは」ぼくはいう。

「ここが、どういうところだか、わかるかい?」

「わかりません」

「そうかな。きみには、わかっているはずだけど。ここは、きみが考えている通り、『悪』の巣窟だよ。きみは、『悪』を倒しにやって来たんだろう?」

「ええ、まあ」

「じゃあ、倒しなよ」

「でも、どうすれば、あなたを倒せるのか、ぼくにはわかりません」

「簡単だよ。ぼくの皮を引き裂いて、粉々にすればいい。ぼくの皮は、古びて、もろいから。だから、きみの力でも、簡単に引き裂くことができるさ」

 そして、ミアちゃんは「ぬいぐるみ」を、ぼくに手渡す。そして、悲しげにこういう。

「さあ、やるんだ。ぼくを引き裂いてみな」

「やったら、どうなるの?」

「ぼくたちは、散り散りになり、暗いところへ落ちてゆく。永遠にひとり、ひとり、バラバラに」

「やらなかったら?」

「ぼくたちは、きみたちの『世界』をもらうよ。ぼくたちには、『世界』がなかったから。『世界』は、いつも、きみたちのものだった。ぼくたちは、ずっと暗くて寒いところで、泣いているばかりだった。ぼくたちには、『世界』をもらう権利がある。そうは、思わないかい?」

 ぼくには答えることができない。なぜなら、ぼくには、「彼」のいうことが正しいように思えるから。

「ミアちゃん。なぜ?」ぼくは小さく呟く。すると、ミアちゃんは、またミアちゃんの声で、やっぱり「ぬいぐるみ」の代理人として、こういう。

「この子は、ぼくたちの仲間だから。この子は、『世界』とは無縁だったから。この子は、『世界』から拒まれていたから。この子は、違う『世界』を必要としていたから。ぼくたちだけが、この子を、受け入れることができたから。この子に、『世界』をあげることができるのは、ぼくたちだけだから。さあ、ランちゃん、やるがいい。ぼくを引き裂くことができなければ、ぼくたちは、きみたちの『世界』を引き裂くのだから」

 ミアちゃんは、薄汚れ、毛がほとんど抜け落ちた、うさぎのぬいぐるみを、ぼくに手渡す。それは、小さく、あまりにも軽い。

「キイちゃん〔ランちゃんの弟で、「悪」に囚われている〕」ぼくは、呻くようにいう。「ごめんね」

 パパ、ママ、鎌倉のおばあちゃん、マホさん〔ランちゃんにとってのウェルギリウス的な導き手〕。ごめんなさい。ぼくには、この子を引き裂くことができません。ぼくは、あんなにも、パパやママや鎌倉のおばあちゃんに愛されていたから。だから、この汚れたぬいぐるみを引き裂くことができそうにありません。

「ランちゃん」ミアちゃんが、いや、「彼」が優しそうな声でいう。「一緒に、遊ぼう」(pp.212-214)

 ランちゃんはこんなふうにまんまと「悪」に懐柔されてしまい、しかし導き手のマホさんの助力などもあってなんとか話は一件落着にまでたどり着くのだが、それはいい。

 それよりも、なぜここでランちゃんは、「悪」のぬいぐるみを引き裂いてしまわないのだろう? それが容易なことであることは、「悪」じしんが保証してくれているというのに。それは、ランちゃんがどこかで気づいているからだ。何に? 「悪」を引き裂けば、「世界」が崩壊するということに。

 それは一見おかしな話ではある。いま「悪」が「世界」を崩壊させようとしている。しかるに、その「悪」を打ち倒せば、やはり「世界」が崩壊する、とは。それは辻褄が合わないのではないか?

 そうではない。「悪」は、それがウラからオモテへと出てくることによっても「世界」を崩壊させうるが、他方で「悪」は、あくまでウラとしては必要不可欠なものなのだ。もし「悪」がウラからも消えてしまえば(ぬいぐるみを引き裂けばおそらくそうなる)、この「世界」は崩壊してしまうだろう。

 そうであれば、やはり、この「世界」が成立している時点で、「私たち」は知らず知らずのうちに「悪」とともに戦っている(with「悪」)と言うしかない。「悪」といっしょになって、ギリギリのところでこの「世界」を支えている、と。あるいは、この「世界」というのは、〈「私たち」は「悪」とともに戦う〉という事態の別名であると言ってもいい。〈「私たち」は「悪」とともに戦う〉=この「世界」ということだ。

 たしかにそれはグロテスクな構造ではある。「私たち」は、with「悪」などと言いつつ、その実態は上に述べたとおり、この「世界」の負の部分を「悪」に押しつけることでしかないのだから。しかし好むと好まざるとにかかわらず、この「世界」はそんなふうに成り立っている。

 

 

 では次の問題。

 「私たち」が「悪」とともに戦うことによってこの「世界」は成立している、と述べた。それはいい。では、「私たち」は「悪」とともに、何と戦っているのか?

 この問いは、「この「世界」は何と戦っているのか?」と言い換えてもいいはずだ。なぜなら、上に述べたとおり、〈「私たち」は「悪」とともに戦う〉=この「世界」なのだから。

 さて、では、この「世界」はいったい何と戦っているのでしょう?

 それはおそらく、「もうひとつ別の世界」ということになるだろう。つまり、「私たち」が「悪」とともに戦うというこの「世界」は、「もうひとつ別の世界」に陥らないように、「もうひとつ別の世界」と拮抗するように、成立している。あるいは、この「世界」は、「もうひとつ別の世界」を排除することによって成立していると言ってもいい。

 おや、どこかで見かけた構造だ、というのは、これは、「私たち」が「悪」を排除することによってこの「世界」を成り立たせているという構造と似ているから。つまり「私たち」が「悪」を排除することでこの「世界」を成り立たせているのと同じように、この「世界」は、「もうひとつ別の世界」を排除することによってみずからを成り立たせている。

 とすると、ここで排除された「もうひとつ別の世界」というのは、これもまた「悪」(括弧付きの「悪」)ということにならないか? それが排除されることによってこそ何かを成立させるところの、否定的条件ということにならないか? なるであろう。したがって、この「世界」は、「もうひとつ別の世界」とともに戦う(with「もうひとつ別の世界」)ということをしていることになる。

 では、この「世界」は「もうひとつ別の世界」とともに、何と戦っているのか? それは、「さらにもうひとつ別の世界」だろう。そしてそれもまた「悪」だろう。ということは、この「世界」は、「もうひとつ別の世界」および「さらにもうひとつ別の世界」とともに戦うということになる。ではこの「世界」は、「もうひとつ別の世界」および「さらにもうひとつ別の世界」とともに、いったい何と戦っているのか? というと「さらにさらにもうひとつ別の世界」となって以下無限につづく。

 ・・・高橋源一郎はかつてどこかで「言葉や文学は政治的なものである」ということを書いていた。そして、政治的であるところの言語=文学とは、究極のところ、「お前は間違っている、俺は正しい」と宣言することである、と。おそらくかつての高橋さんにとって、「あることを書く」ということは、イコール「それ以外のことを書かなかった=それ以外の可能性を殺した」ということを意味していたのだろう。冷徹と言ってもいい、リアリスティックな認識だ。

 ところが本作『「悪」と戦う』では、かつての高橋さんであれば「殺されてしまったそれ以外の可能性」として切り捨ててしまったかもしれないような、「悪」や「もうひとつ別の世界」「さらにもうひとつ別の・・・」「さらにさらに・・・」といった可能性を掬い取ろうとしているように見える。そうした「殺されてしまったそれ以外の可能性」がなければ、じつのところ、「私たち」も「この世界」も成り立たないのだ、と。

 終盤、とうとつに語り手の「わたし」(小説家本人を思わせる)が、悟りのようなものを得て思弁的なことを語りだす。かつて単行本で読んだときはこの部分がいかにも取って付けたように見えて鼻白んだものだった。

 不意に、わたしは、世界は一つではなく、たくさん、いや、無数にあるのではないかと思いました。そして、どの「世界」にも、わたしに似た「わたし」や、ランちゃんに似た「ランちゃん」やキイちゃんに似た「キイちゃん」、さらにはミアちゃんに似た「ミアちゃん」がいて、他の「世界」のことを知らずに生きているのだと。それだけじゃない。それぞれの「世界」で、なにかと戦っているのだ。なぜなら、そうしなければ、その「世界」の誰かが戦いをやめれば、すべての「世界」が、いや世界そのものが滅び去ってしまうから。ああ、わたしは自分の思いつきに興奮していました。それぞれの「世界」の住人は、他の「世界」の住人のことを知らない。けれども、一つの「世界」は、他の「世界」によって支えられているのだ。お互いの「世界」によって、支え合っているのだ。けれど、【そのことは絶対に証明できない】のです。わかっています。それは、夢想です。年がら年中、ありもしないことばかり書いているので、わたしの頭は少々、イカレ始めているのかもしれない。けれど、絶対に証明できないけれど、あるんだ。あるような気がする。あったっていいじゃないか。みんながみんな、ないといっても、わたしだけは、あるといいたい。……いえるかな。わたし、気が弱いし。興奮は……すぐに終わりました。いつものことです。次の瞬間、わたしは、もう別のことを考えていました。(pp.237-238、【 】は原文では傍点)

 僕が上で述べた、この「世界」の構造、すなわち「私たち」が「悪」とともに戦うことがこの「世界」であり、この「世界」は「もうひとつ別の世界」とともに戦い、この「世界」と「もうひとつ別の世界」は「さらにもうひとつ別の世界」とともに戦い、この「世界」と「もうひとつ別の世界」と「さらにもうひとつ別の世界」は「さらにさらにもうひとつ別の世界」とともに戦い・・・という無限の構造をもつ、ということと、引用文中で語り手の「わたし」が述べる可能世界・複数世界論のようなものが、どの程度重なるのかはわからない。というか、たぶん重ならない。重ならないが、それは言葉で説明しようとしたからそうなってしまっただけであって、おそらく、そのもとになった直観の部分では両者は似たような地点にいたのではないか。ほんの一瞬よぎる、この「世界」の感触のようなものを得た時点では。

 しかしお互い、言葉でその感触を説明しようと書くほどに当初の直観は背景に退き、なんか違うんだけどなと思いつつ、でもまあこれはこれでおもしろいからいいか、となって、「次の瞬間」には「もう別のことを考えていました」となるのだ。

胸騒ぎの腰つき胸騒ぎの腰つき胸騒ぎの腰つき

 先週のボーズにもめげず、2週連続で荒川に釣りにいく。それで出かけようとしたら直前に豪雨。一瞬くじけそうになるが、いや、この降りっぷりなら釣り場に着くころにはやんでいるはずだと思いなおし、車で出発。すると予想どおり川に着くころには雨はやんだのだった。

 車のなかで昼食がわりにおにぎりを食べ、腹ごしらえも済んだところでいざ釣らん。と、2投目であっさりとスモールが1匹釣れた。それからしばらくしてラージも1匹追加。どちらもサイズ的にはたいしたことないけど3年ぶりにバスを手にしてうれしい。ヒットルアーはスパテラ4インチのスプリットショットリグ。それをてきとうにスイミングさせていたら釣れた。

 先週の釣りの日記にも書いたけれど、やっぱりガツガツはしちゃいかん、ガツガツは。「このポイントなら魚がいるはず」「このルアーなら釣れるはず」というのを選んだら、あとはガツガツしないでぼけーっとルアーを流しているとほとんどオートマチックに魚が掛かってくる。あとは主体(釣り人)がほとんど無意識のうちにアタリを感知し、体に染みついたクセでアワセをすればいいだけ。(そこから先のファイトの時間帯は意識の領域ですが。)

 2匹釣れて安心し、あとは新規ポイントを開拓しようと移動。釣りをするよりも歩き回ってばかりいたので結局そのあとはノーフィッシュ。おまけに暑くて汗だくでちょっとフラつく。でもいい。今日は2匹釣れたのだから。

 歩き回っているときに茂みから「きぇー!」と北野くん(from『エンジェル伝説』)みたいな叫びが聞こえてこちらがビクッとしたところで大きな鳥が飛び立った。顔が赤く、体は深い緑。キジの雄だろう。それはいいのだが、わからないのが、同じく歩き回っているときに遭遇した茶色い鳥。鳥なのに飛ばず、走っていた。茂みから走って飛び出してきて、しばらく僕が歩く前を走り、茂みに走って消えていった。え、エミュー? あの鳥は何という鳥なのだろう。

 それから夕方、暗くなりはじめた頃、若いカマキリを救助した。どうやら植物のつるに捕まって動けないようだったので、プライヤーでつるを切ってあげた。胴にひと巻ぶんのつるが残ってしまったが、まあ、それは自分で取るなり、枯れてポロっと落ちるのを待つなりしてください。

 18時頃、納竿。たばこを一服してから帰る。何年か前に買ったきりほとんど聞いていなかったサザンのベストを聞きながら運転しているとサザンの夏に合う度ハンパねえ。帰宅して晩ごはんには鳥団子チゲを食べた。ビールがうまい。

ガツガツしちゃいかん

 夏休み取得。3年ぶりに荒川に釣りにいく。結果はボーズ。川に着く直前にザッと大雨、川に着いたらさんさんと日が照り、近ごろ続いていた雨で水は濁り気味・・・というタフコンディションのせいもあっただろうが、やはり3年ぶりというブランクが大きい。なんというか、かつて毎週のように釣りをしていた頃であれば自然とこなせていたようなひとつひとつの動作が、いちいちとりわけ意識しないとできない、というか。そうするとどうしてもラインを通じてぎこちなさが魚に伝わり、警戒されてしまったんじゃないだろうかとかなんとか、いいわけ。

 とはいえ釣り場に着いてすぐテキトーに投げてテキトーに巻いていたスモラバで1匹掛けたのは掛けた。たぶん着いてすぐでまだこちらの気が抜けていたのがよかったのだろう。そうすると魚も警戒せずにパッとルアーに食いついてくれる。枝に巻かれてバレたけど。

 *

 真夏の太陽が上からも下(水面)からも照るなか、汗をだらだらとかきながら、キャストとリトリーブを繰り返す。なにしろ暑くて動き回るとブッ倒れかねないので、ひとつのポイントで釣り粘る。

 草むらのなかでそうしていると、さまざまな虫があたりを飛びかったり這いまわったりしている。ときには僕の体にもとまる。蝶や蜂やハエやアメンボやカマキリや蟻といったメジャーな虫はわかるけれど、名前もわからないような大小さまざまな虫もいて、彼らを見ていると、みんなそれぞれのスケール(空間的、時間的スケール)で生きているのだなと思う。つまりみんなそれぞれバラバラの世界を生きているということだ。こうした自然のなかにいると、それが言葉でわかるよりも先に体感としてわかる。

 虫だけではない。ときおり水面に顔を出す魚(たぶんコイとかハクレン)や、岸ぎわに群れている小魚(たぶんブルーギル)、それから空を飛ぶ鳥(雄大なサギが飛んでいた)もそうだ。ヘビもいた(たぶんシマヘビ)。みなさん、ヒトである僕とはぜんぜん異なる時間と空間を生きていらっしゃる。つまり別の世界を。

 しかし不思議なのは、各生物がそれぞれ別の世界に生きているということではない。むしろ、それぞれ別の世界に生きているはずの生物たちが、なぜ同じひとつの「この世界」を共有しているのかということのほうだ。みんなてんでバラバラの世界で生きていてぜんぜん交わらないというのなら、それは好むと好まざるとにかかわらず、まあわかりやすい世界観ではある。

 しかし現実にはそうなっていない。みんなバラバラの世界を生きているはずなのに、なぜか「この世界」において交わるということが起きている。だって、そうじゃなければ「釣り」なんて行為が成り立つはずがないじゃないですか。ある意味で、釣り人は、魚のスケールで魚の世界を生きる。そうしてうまく魚に「なる」ことができたとき、魚が釣れる。たしかそういう描写が『釣りキチ三平』にもあったはずだ。魚視点のコマが。(まあ魚に「なる」ことができなくても釣れるときは釣れますが。)

 このあたりの問いってユクスキュル的なのかな。わかんないけど。

 晩ごはんはトリ団子鍋。ビールと日本酒。釣れようが釣れまいが釣りのあとのごはんはうまい。

夜になったというだけのことさ

 昨日の夕方のこと。取り寄せを依頼していた本が届いたというので池袋のジュンク堂へ受けとりに行く。

高橋源一郎『大人にはわからない日本文学史
高橋源一郎×内田樹『ぼくたち日本の味方です』
高橋源一郎×加藤典洋吉本隆明がぼくたちに遺したもの』

 高橋さんの本で買いそびれていたもののうち、そろそろネット書店にも在庫がなくなりそうなものを取り寄せてもらったのだった。

 まあ、ここまではいいさ。もともと自分の意志で取り寄せようと思ってしかるべき手続きを踏んで購入したものだから。

 でもリアル書店に行くと当初は予定になかったあれやこれもついでに買ってしまうといういつもの罠にはまり、以下も追加購入。

平野啓一郎『本心』
諸星大二郎妖怪ハンター 稗田の生徒たち』
諸星大二郎『未来歳時記バイオの黙示録』
石黒正数『天国大魔境』6巻
・『イリュミナシオン』創刊号

 平野さんの新作はAIが出てくるらしいので気になって購入。

 モロホシ2冊はたしか以前に単行本で読んだ気もするけど新たに文庫が出たからには買わねばならない。『妖怪ハンター』のほうは単行本未収録の作品も入ってるらしいし。

 『天国大魔境』は続きだから。といっても前巻は買ったもののまだ読んでいない。なんなら前々巻も買っただけで読んでない。その前のも。てか、じつは1巻しか読んでいない。出るたびにすぐ買うが、もったいなくて読まずにとってあるのだ。

 『イリュミナシオン』は店頭でたまたま目にした雑誌。本のたたずまいを見て(いかにもおフランス)、ぱらぱらと中身を見て、すぐにああもうこれは買わなしゃあないわとなって購入。公式サイトに目次があった(https://sites.google.com/view/illuminations7/)。なんと豪華な。

 ともあれ本をかかえてレジにいき、店員さんに「袋をください」と言う。すると店員さんが、

「5円のビニール袋ですか? それとも20円の紙袋ですか?」

 とおっしゃる。

「いいえ、わたしが落とした袋はただのエコバッグです」

「まあ、そんなSDGs意識にあふれたあなたには、何もさしあげないのがよろしいでしょう。本は手で持って帰りなさい」

「ええ、そんな殺生な! 重くて無理です!」

 という展開にはならず、普通に「5円のビニール袋でぜんぶ入りますか?」と尋ねたところ、

「入らないかもしれません」

 とのこと。じゃあなんで選択肢として提示するんや。店員さんが本を無理やりビニール袋に突っこみ、あげく入りきらず、あとに残るはのびのびになったビニール袋だけ・・・という無惨なことになったら後味が悪いので「じゃあ紙袋にしてください」とお願いし、紙袋内にきれいに2列に収められた本を持って帰った。

 電車に乗ると窓の外が暗い。そういえば夜から台風が来るということだった。もう来たのか、雨に濡らさずに本を持って帰れるかしらと気に病むが、電車を降りても雨など降っておらず、なんてことはない、本屋に寄り道したからいつもより帰る時間が遅くなり、夜になったというだけだった。明け方に一度、大雨の音で目が覚めた。

(追記)

 前回の記事を書いたときに、ツイッターなるもので初めてつぶやくということをやってみんとす、ということでちらっとつぶやいてみたが、その後2週間ちかく結局ひとことも発さず。

 どうも向いてないわーこれ、何つぶやけばええかわからんわー、そもそも俺、ケータイとか持ってへんし、てことはつぶやくためにはいちいち机に向かってパソコンの電源を入れてブラウザ立ちあげてツイッターに入ってキーボードをぱちぱち打ってつぶやくということになり、そこまでしてやらなあかん「つぶやき」っていったい何やねん、つぶやくいうんは気ぃ向いたときにほとんど無意識っていうか惰性っていうか、そういう無理のない形でポロっとくちをついて出るからこその「つぶやき」いうんであってやなーというところでどうも興がのらない。

 というわけでもうツイッターはええわ、ほっとこ、ひとことしゃべっただけで卒業や、と思っていたのだが今日ブログを更新したら「この記事をシェアする」みたいなボタンが出てきてそれを押すと、おお、ツイッターに接続して「はてなブログに投稿しました」というのを自動的につぶやけるではないか! なんと便利な!

 って、わし、いつの時代の人やねん。ともかく今日はふたことめをつぶやきました。

 このツイートがいいねときみが言ったから7月27日はつぶや記念日

いまさらつぶやく

 hontoから本が届いた。今日はいい日だ。(山本貴光さんのマネ)

 届いたのは高橋源一郎『101年目の孤独 希望の場所を求めて』、『ゆっくりおやすみ、樹の下で』、『動物記』、小泉義之小泉義之政治論集成1 災厄と性愛』、『小泉義之政治論集成2 闘争と統治』、諸隈元『人生ミスっても自殺しないで、旅』の計6冊。

 高橋さんや小泉先生の本は集めているのでいいとして、諸隈さんの本は初めて買った。というかこれがご自身の初の本のもよう。諸隈さんのことは「ヴィトゲンシュタインのことばかりつぶやいている変な人がいるなー」というのでたまたま知った(https://twitter.com/moroQma)のだが、以来しばしばツイートを拝見しており、今回は初めて本を出されるということでご祝儀がわりに1冊購入。

 

 

 諸隈さんは『熊の結婚』という作品で2014年の文學界新人賞を受賞された方のようだがそちらは本になってないみたい。そのうち探して読んでみたい。

 前回の記事で「僕は人様のツイートは読むけど自分ではつぶやかない」みたいなことを書いたけど、自分ではつぶやかないというのは本当だとして、しかしツイッターのアカウントを持っていないわけではない。なんならわりと昔から持っている。2008年6月から。

 nasuo https://twitter.com/nasuo

 しかし何もつぶやいていないのにすでに3フォロワーってどういうことなんだろう。この人たちはいったい何を追いかけているのか。そこに私はいませんよ(秋川)。 

 ところで記憶ちがいかもしれないのだが、昔はツイッターは招待制ではなかったっけ。招待された人だけが参加できるという。僕はたしかNさんから招待され、登録だけはしたものの、使いはしなかったということだった気がする。いまでは自由にアカウントを作れるみたいだから、いつからか招待制ではなくなったのだろうか。

 と、調べてみると、「「初期のツイッターは招待制だった」というデマが拡散中
」というドンピシャの記事があった。

 https://anond.hatelabo.jp/20200820130659

 そうですか、デマでしたか。でもたぶんそれを言いふらしている人の記憶では、ほんとにかつてツイッターは招待制だったことになってるんだろな。僕もなってたし。

 ともあれいい機会なのでいよいよ何かつぶやいてみようかしら。つぶやいてみよう。ということで記念すべき初ツイートはこちら。・・・みたいな前フリをするとさ、ハードルが上がって絶対何を書いてもスベるわけよ。そもそももう「ここらで一発おもろいこと言うたるで」みたいな気力のある年齢でもない。むしろ「かましたった!」とそのときは思っても翌日には高確率で恥ずかしくなっているということを知るに足る年齢である。

 というわけで、初ツイートはおもしろさを狙わずにただぼそぼそとつぶやくにとどめよう。

 https://twitter.com/nasuo/status/1415246174395650054

 今後も使うかどうかは未定!

C'est égal.

 先日、車を買った。自分で買うのは初。実家にいた頃は家の車を毎日のように運転していたけれど、東京に出てきてからはほぼ運転していなかった。販売店に納車された車を取りにいき、そこから家まで運転したのが、じつに10年以上ぶりの運転となった。

 それで週末はリハビリもかねて車でお出かけ。まずは都心のほうへ。みんな飛ばすよなーというのが久々に運転してみた感想。僕は怖いので法定速度どおりに走るが、普通にどんどん追い抜かれる。途中、新宿あたりで何度か信号につかまり停車がてら街を眺める。初夏の晴れた新宿の街を行きかう人びとの姿はつきづきしい。

 いったん帰宅し、今度は都心とは逆、埼玉のほうへ。荒川を見にいこうということで出発したのだが途中で天気が急転、警報が出るほどの大雨となる。大粒の雨が車の天井を叩きヒョウでも落ちてきているのかというゴツい音が鳴り、ワイパーを高速にしても視界がにじむ。そのにじんだ視界に稲光がジグザグの線を描き、つづいて轟きが起こる。安全運転を心がけ、川(というか川の手前の土手の下)にはなんとか到着したものの、雨脚がひどすぎて車から出ることもかなわず、ただ引き返してくるだけとなった。が、これもまた初夏の一コマ。帰りに秋ヶ瀬橋を渡るとき進行方向(南のほう)を見ると高い建物もない空が一面の灰色で不穏にうごめいていた。

 さて前回のつづき。なぜいま再び7年間の休止を経てブログを再開しようと思ったのかという話だが、やー、ツイッターで情報を漁るのに疲れたんですね! ツイッターといっても僕の場合は自分で何かをつぶやくわけではなく、人のツイートを読むだけのROM(いまでもこの言い方をするのだろうか)というやつだけど、この1年数ヵ月ほど、ひたすら人のツイートを読んでは情報を仕入れるということをやっていた。おもにコロナと政治に関する情報を。(これはいまあらためて振り返ると危険な兆候とも言える。人によってはそうして陰謀論にハマるのだろう。)

 それでご存じのようにツイッターというのは感情を刺激しやすいものだから、あるツイートを読んでは怒り、次のツイートを読んでは悲しみ、次のツイートでは笑いがこみあげ、また次のでは怒りがわく・・・みたいなことをえんえんやっていると自分のなかの感情をつかさどる部分がおかしくなってきた。チューニングが合わなくなるのではない。合うことは合うのだが、ものすごいスピードでチューニングを合わせるためにチャンネル数じたいを限定し、3つか4つしかないチャンネルのあいだをひたすら高速で行き来する感じというか。

 人間そんなことしちゃいかんです。それでなんかもうこういうの疲れるわーやめよーとなって、近ごろでは特に気に入った人のツイートだけをしみじみと読むようにしている。と同時に、自分としてももうちょっとゆったり物事を考えられるスペースが欲しいというような気分になっていたのか、「またブログ書こうかなあ」と考えはじめた。いや、「ゆったり物事を考えられるスペース」が欲しいというより、ツイッターで情報を漁っていた頃は「考える」ということを放棄していたわけだから、端的に「考えるスペース」が欲しいということなのだろう。この「スペース」というのは「遅さ」と言い換えてもいいのだけど、どうやらいまの自分はブログ程度のスペース=遅さを必要としているみたいだ。

(それからもうひとつ。ブログというものがかつてほどの勢いがなく、いまや衰弱してほとんど死に体だというのも、あえて書こうと思った理由かもしれない。)

 ともあれブログなるものを再開し、するとかつて「自分でも書き、人様のも読む」ということをやっていたように、いままた他の人のブログを読むようになっている。ツイッターに溺れていた1年数ヵ月のあいだにはなかったことだ。

 以前によく訪れていた古谷利裕さんの『偽日記』や坂中亮太さんの『at-oyr』(昔はちがうタイトルだった気もするけど)はいまもご健在。黄金頭さんの『関内関外日記』も。『メモリの藻屑、記憶領域のゴミ』というのもよく読んでたな。他には何があったっけ、と考えるのが楽しい。

 他方でかつて好きだったのにいまでは消えてしまって探せない、あるいは非公開になってしまったブログもある。三宅誰男さんの『きのう生まれたわけじゃない』とか、takiko17さんの『Genius plus Love』とか。こういうのはふつうに寂しい。一方的ではあるが親近感をおぼえ、世界を相手に共闘しているつもりになっていたから。この場合の「共闘」というのは「よしいっしょにがんばろう」みたいな示し合わせもなく、各人が各人の状況と意志にもとづいて勝手に起ちあがったときに、たまたま似たような方向を見ていた程度の意味だが、まあ、いずれまた出会うこともあるでしょうし、会わないこともあるでしょう。それはどちらでもいい気がするのです。

(ところで、「ブログ」「ブログ」って書くのなんだか恥ずかしい。他に言いようがないから上では「ブログ」って書いたけどさー。「日記」だと意味がブレちゃうし。)

きゅうしん、きゅうしん

 道路地図帳が欲しくなって仕事帰りに池袋ジュンク堂の2階であれこれ読み比べ。それでまあド定番ではあるけれど、りんごマークの『スーパーマップル』がよくできていることよなーということでこれを買おうそうしようと思ったところでふと待てよ。財布にいくら入っておったっけと見ると3千円しか入っていない(『スーパーマップル』は4千円)。仕方がない、コンビニでおろすかということでいったん店の外に出ると行きかう傘の群れ、足早な人びと。いつのまにやらそれなりに強い雨が降り出しており、雨の日に本を買うのもなーなんだかなー濡れたら萎えるしなーとなって結局コンビニではなく駅に直行して電車に乗って帰る。

 晩ごはんは昨日猫の誕生日に出したマグロが余っていたのでねぎま鍋。それだけでは量が足りないので豚肉ともやしの炒め物。酒はビール、日本酒。いつもねぎま鍋を食べるたびに『美味しんぼ』の快楽亭ブラックさんが「ねぎまの殿様」を演じるシーンがよぎる。殿様がねぎを噛むと熱い芯の部分がぴゅっと飛び出してノドの奥に命中し、「このねぎは鉄砲じかけになっておるな」うんぬん。

 ところで前回の日記で「今日からブログを始める」と書いたけれど、これは正確には「今日からブログを再び始める、再開する」という意味。というのは以前にもブログを書いていたことがあったからだが、あれはいつだったろう? と調べると2008年から2014年にかけてのようだ。そうか、もうあれから7年も経ったのか、となにやらしみじみと感じ入るところだが、ともあれこのたびの新たなブログのタイトル「Vol.2」には、そのあたりの事情が込められている。

 旧「那須日記」はなぜやめてしまったのか。なぜだろう・・・わからない。始めたときのことはよく覚えている。2008年の7月のことだ。僕は岡田利規さんの『わたしたちに許された特別な時間の終わり』を読み、あまりにすごかったので心がざわざわし、しばらく吸っていなかったタバコを夜遅くコンビニに買いに走り、吸い、それでも依然としてざわざわがおさまらず、「よし、人もすなるブログといふものを、我もしてみむとてするなり」ということで書きはじめたのだった。

 心のざわめきをしずめる手段として何かを書くということならべつにブログじゃなくてもよかったはずだ。個人的な日記でも、知人へのメールでも、ツイッターその他のSNSでも。それがなぜブログだったか? というとこれは単純で、当時自分が人様のブログをあれこれ読んでいたから。読み、そして、いずれ自分もきっかけがあれば書いてみようと思っていたから。その「きっかけ」がたまたま岡田利規(を読んだことによる心のざわめき)だったというわけ。

 飽きたらすぐにやめようくらいの気楽さで始めたにもかかわらず、思いのほか続いた。たしか1500記事以上書いたのだったと思う。そのかん、人様のブログを読むのもいよいよ楽しくなり数多くのブログを読んだものだ。自分の日記を書き、人様の日記を読み、書き、読み、書き、読み、と、そんなふうにして気づけばブログ開設から6年以上が過ぎていた。それなりに熱中していたということなのだろう。

 しかししだいになんとなく、そう、「なんとなく」ブログなるものと疎遠になっていった。強いて輪郭のはっきりした言葉を与えれば「飽きた」とか「疲れた」となるのだろうが、自分の感触としてはもっとずっと「なんとなく」ブログから離れていった。自分のブログを更新する頻度は間遠になり、よそ様のブログもこまめに追わなくなった。そしてある日、書くのをやめた。いや、「ある日」といっても、明確に「やめよう」と思った日があったわけではない。もっとずっと「なんとなく」、いつのまにか書くのをやめていた。だから旧ブログの最終更新日は「今日で最後にしよう」と決めた日付ではない。そもそもそんな日付は存在しなかった。

 さて、ではなぜいま再び、7年間の休止を経てブログを再開するのか?

 ・・・というところまで書いて疲れたので今日はこれくらいにしておこう。つづきは次回。